マザーテレサに学ぶ「信念をつらぬく生き方」

みなさま、こんにちは。

広島をこよなく愛する

ピンク社長こと多田たえこです。

8日27日 が

マザー・テレサと同じ誕生日と

知ったのは、小学生の時でした。

当時、偉人伝が大好きで

いろんな偉人の生き方を学んでいました。

マザー・テレサの信念を貫く生き方に


感動したことを


今でもはっきりと覚えています。

同じ日に生を受けた事を誇りに思います。


マザー・テレサの生き方をご紹介いたします。

ユーゴスラビアの古都

スコピエの商人の家に生まれました。

12歳には神に捧げて生きることを考え、

18歳になったとき、

アイルランドにあるロレット修道会が

修道女をインドに派遣していることを聞き、

インドへ渡る決意をし家を離れ洗礼を受けました。

彼女はインドのベンガル区にある

ロレット修道会の経営する学校で教師を始め、

この学校の校長までなりました。

そして、1946年の9月10日、

その日ヒマラヤにあるダージリンに向かう

列車の中で彼女は、

イエスの「貧しい人の中で一番貧しい人の間で


神に仕えるように」と内なる声を聞いたのです。

彼女は、ロレット修道会を出て

貧しい人々の中にはいることを決意して、

カルカッタ大司教とローマ法王に

修道会の外に出て

活動する許可を求めましたが、

修道女が修道会の外に出ることは

原則として許されませんでした。

けれども彼女の熱心な願いは、

ついに聞き届けられ、

2年後、例外的な許可がおりたのです。

彼女は、学校のすぐ隣にある

カルカッタのスラム街に入っていきました。

その時ポケットには

5ルピーがあるだけだったといわれています。

たった1人スラム街に入った

彼女は地面に棒で文字を書いて



字を教える青空教室から始めました。

初めは5人から始まった教室も

毎日のように新しい子どもが顔を見せ、

人数もどんどん増えていきました。

かつてのロレット修道院時代の教え子も

仕事を手伝い、また、家を提供してくれる人や

お金を寄付してくれる人も現れ始め、

1950年彼女の生活共同体は、

ローマ法王から、

修道会「神の愛の宣教者会」として認可され、

このときから、

彼女は「マザー・テレサ」と呼ばれるようになったのです。

そして、1952年、

路上で死にそうになっている人を連れてきて、

最期をみとるための施設

「死を待つ人々の家」を開設しましたが、

ヒンズー教徒である地元住民の

強い反対がおこりましたが、

ある日、彼女がコレラで死にそうな

ヒンズー教徒の僧を引き取り、

死をみとったことをきっかけに、

住民の彼女を見る目が変わっていったのでした。

1979年、ノーベル平和賞を受賞しましたが、

「私は受賞に値しないが、



世界の最も貧しい人々に代わって賞を受けました。」


と受賞後も、朝4時に起床、

シスター達と一緒に、路上生活者や

ごみ捨て場に捨てられた幼児を

施設に連れてくるといった生活を

ほとんど変えずに行い続けていました。

87歳で亡くなり、

葬儀はインド政府による国葬として行われました。

どんな人にあっても、まずその人のなかにある、

美しいものを見るようにしています。

この人のなかで、

いちばん素晴らしいものはなんだろう?

そこから始めようとしております。

そうしますと、かならず美しいところが見つかって、

そうすると私はその人を、

愛することができるようになって、

それが愛のはじまりとなります。 マザーテレサ
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