【ガンジーの世界観から学ぶ】会社の業績は社長の器次第

みなさま、こんにちは。
ピンク社長こと多田多延子です。

18歳で起業して、
事業が拡大する中で
さまざまな出来事に遭遇し、
経営者としての器の大きさ
大切さを感じることが
増えてきました。

会社の業績は、社長の器次第

本当に自覚した時から、

「では、どうしたらその器を
大きくすることが出来るのか

と模索し始めました。

起業家を志した
小学生の時に始めたように
まず、わたくしの原点に戻り
「偉人の言葉」から学ぼうと
偉人伝を読み始めました。

明日死ぬかのように生きよ。
  永遠に生きるかのように学べ。

この名言に出会った時に、
目の前のもやが
すーっと消えていき
光明がさしたのを感じました。

是非、皆様にもインドの父
ガンジーのご紹介をさせてください。

キング牧師など、人権運動や
植民地解放運動において
世界中に大きな影響を与えた
ガンジーの世界観を感じる
エピソード
をご紹介いたします。

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ガンジーの奥様がインタービューを
受けた時のことです。
「お子様は何人いらっしゃいますか

「私には4人の子供がいます。
しかし、わたくしの夫には4億人の子供がいます」と
お答えになったそうです。

すべての国民をわが子のように
愛していたからこそ
ガンジーはインドの独立解放運動を
成し遂げたのだと思います。

どれだけ高い目線で人々を救いたいと
決意していたか
を感じる大好きなエピソードです。

ガンジーは869年、英国領インド帝国
(現在のグジャラート州ポールバンダル)に生まれました。
父は、当時のポールバンダル藩王国の宰相。

小学校時代は、成績や素行も悪く、
ヒンドゥー教の戒律で禁じられている
肉食を繰り返したり、タバコ代欲しさに
召し使いの金を盗んだこともあったそうです。
13歳のときに、インド幼児婚の慣習により結婚。

18歳で弁護士になるためにロンドンに留学。
卒業後に南アフリカで弁護士として開業するも
白人優位の人種差別政策下で強烈な人種差別を体験。
その後、インド系移民の法的権利を擁護する
活動に従事するようになりました。

インド帰国後は「非暴力、不服従」運動によって
イギリスからの独立運動を指揮。

1947年、ついにインドを独立させ、
イギリス帝国をイギリス連邦へと転換させます。

1947年8月、パキスタンがインドから分離独立。
ガンジーは、ヒンドゥー原理主義者から
ムスリムに対して譲歩しすぎるとして敵対視され
1948年1月、ガンディーは狂信的な
ヒンドゥー原理主義集団民族義勇団によって襲撃されます。

ピストルで撃たれたとき、ガンジーは自らの額に
手を当ててこの世を去りました。
それはイスラム教で「あなたを許す」という意味の動作。
78歳の生涯でした。

ガンジーの平和的な手法は、
キング牧師など、人権運動や
植民地解放運動において継承されています。

世界中に大きな影響を与えた偉大な人物です。

わたくしに勇気をくださる
尊敬するガンジーの名言をご紹介いたします.。

あなたの夢は何か、
 あなたが目的とするものは何か、
 それさえしっかり持っているならば、
 必ずや道は開かれるだろう。

 人間は、その人の思考の産物にすぎない。
   人は思っている通りになる。

 ゴールへ到達しようとの試みにこそ、
  栄光はある。

 

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