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多田 多延子(ただ たえこ)
株式会社ティーエスピー 代表取締役
一般社団法人ピースピースプロジェクト 代表理事

世界一ピンクを愛する
Google検索1位「ピンク社長®」。

広島県広島市在住、女性経営者。
お目にかかる方に幸せになっていただきたいという願いを込めて、2009年から365日ピンクの洋服を着続けている。

広島生まれ、広島育ち、広島在住の女性起業家
10歳の時、交通事故による脳内出血から奇跡の生還、社会に役立つ起業家を志す
ミスJRひろしまの経験を基に18歳で起業、「ナレーターモデル」という新業態確立
NHKのパーソナリティやアナウンサーとしても活躍
1996年、株式会社ティーエスピーを設立
2010年、世界一大きい折り鶴のギネス世界記録認定
2012年、固定価格買取制度開始と同時に、太陽光発電所の分譲仲介を開始
2014年、漫画「キセキのヒロシマ」を原作出版(後に、英語・フランス語版も出版)
2016年、オバマ大統領より「あなたの物語(キセキのヒロシマ)に感動した」とお礼状を賜る
2020年より、外務省後援 第1回「子ども世界平和サミット」を主催(以降毎年開催)
2021年、カーボンニュートラル事業のコンサルティング開始
2022年、衆議院議員会館にてZ世代との「2050年カーボンニュートラル実現に向けたシンポジウム」主催

ピンク社長はなぜ起業家になったのか
ピンク社長のオフィスツアー
交通事故による脳内出血。
生かされている感謝を形に表すため、社会に役立つ起業家を目指す。

原爆ですべてを失った曾祖母が、両親を亡くした幼い母を自らの力で育て事業を再生した姿を見て育ちました。「私もひいおばあちゃんの様に大切な人を助けることが出来る起業家になりたい」と 3歳の時から起業したいという想いがありました。

10歳の時に、自転車の交通事故による脳内出血で瀕死の重体となり、生死の境をさまよいました。
生存確率数%、運良く助かっても寝たきりか半身不随と宣告されましたが、 名医の執刀の元、2週間で退院を許されました。毎日隣の病室の方が、うめき声をあげ亡くなっていく緊急病棟の病室の中で、極限の死への恐怖を体験しました。
死に直面した後、死生観が変わり、生かされている事を感謝するようになりました。

死生観が変わった10歳のわたくしが決意した事は、生かされている感謝を形として「証」を立てる事でした。その感謝の証として、社会に役立つ起業家を目指す事を決意しました。
小学生の私は、図書館での偉人伝を読み、「どのようなことが社会に役立つのか」、 「どのような生き方を目指すのか」を学ぶことから始めました。

中学生の時のアメリカでの体験が、18歳の起業への勇気に。

母は、私が生まれる前から、中学校1年生の時にアメリカ行きの準備をしていました。
幼稚園の時から、茶道、華道、書道、合気道、邦楽などさまざまな日本文化を体験させてくれました。当時1ドル250円でしたので、かなりの費用がかかったと思います。
それでも、母はわたくしにアメリカ文化を体験させたかったようです。
母の友人は、東京銀行の幹部で、自宅でのパーティーにはさまざまな国籍の起業家達で溢れていました。こんなにたくさんの国籍の起業家達にお逢いする機会は初めてでしたが、みなさんとても優しくキラキラされていたことが、私の起業家イメージをさらに良いものにしてくれました。

今では、一般家庭にも普及しているウォーターサーバーですが、 30年以上前のアメリカの一般家庭には一部屋に一台ありました。
ディスポーザブルや日本で見たこともない製品に触れるたびに「日本ではまだないけど、アメリカで成功しているビジネスはたくさんある」と、大きなビジネスチャンスを感じました。
この時の経験が、「新しいビジネスにチャンスあり 」と、後の18歳の時の起業に勇気と確信を与えてくれました。

高校時代の碑巡りボランティアがきっかけ。
ヒロシマから世界平和を発信したいという想い。

高校生の時から、広島の平和記念公園内の記念碑を案内するボランティア活動に参加していました。
しかし、どの資料も広島の被爆の悲惨さを伝えるものばかりでした。
平和学習に訪れた方々からは、「広島に来るとつらい原爆の歴史を思い出すから、 もう広島に来たくない」と言われ、何度も悲しい経験を致しました。
現在も世界各国で「広島の原爆展」が開催されていますが、 被爆直後の焼け野原となったヒロシマと、被爆した方たちのやけどの悲惨な 写真パネルばかりが展示されていることも、私の中で悲しいギャップとなっていました。
今でも広島は、放射能を含む「ブラックレイン」に象徴される 「被爆地ヒロシマ」のままなのだということを知り大きなショックを受けました。

広島は、悲しい思い出だけの都市ではありません。がれきの中から見事に復興を遂げた、希望あふれる「復興都市」です。
原爆の悲惨さだけを伝えるのではなく、平和を願い続ける都市であると知って欲しいと願っていました。

お逢いする方の幸せを願い、365日ピンクの洋服を。
世界最大の折り鶴」ギネス記録会見から、「ピンク社長」に。

ピンクの洋服を着るきっかけとなったのは、 中学生の時にアメリカの友人から「Taeko is in the Pink」と呼ばれたことです。
「in the Pink」の意味を聞くと、「幸せに満ちているっていう意味だよ」と教えてくれました。
その他にも、「健康である」「絶好調」など素敵な意味でした。

色彩療法などでも活用されているピンクは、見るだけで発がん性物質が10分の1に減少したり、
βエンドルフィンやドーパミンといった脳内物質が分泌されることも医学的に実証された 「健康にする力をもった」色です。
私は、光栄にもマザーテレサと同じ誕生日です。
マザーテレサが「世界平和の為に何をしたらよいですか?」という質問に「帰って家族を大切にしてあげてください」という名言に感銘し、世界平和とは「幸せな人の集合体が大きくなること」が最短路だと理解しました。
自らの実践として「お目にかかる方が益々しあわせになって頂きたい」との 願いを込めて365日ピンクのお洋服を着ています。

2009年、世界平和を祈り、「世界最大の折り鶴」に挑戦し、翌年ギネス認定されました。
ギネス挑戦の記者会見以来、365日、毎日ピンクのお洋服を着て 「お逢いする方がもっとしあわせになって戴きたい」と祈っていたところ、皆様より「ピンク社長」と愛称で呼ばれるようになりました。

学生時代に起業、全国展開。
子どもの頃から夢見ていた、社会に役立つ事業をスタート。

学生時代、18歳の時、ミスJR広島の経験を元にアナウンサーとモデルの能力を持つ「ナレーターモデル」の育成、派遣事業を自己資金で起業し、800人のスタッフと共に全国展開致しました。
卒業後はNHKのパーソナリティーも務め、著名人のインタビュアーや 番組編成のプロデューサーとしてもキャリアを積みました。

現在、東南アジアやアフリカでは経済発展が進み、地球上の人口も毎年2億人以上増加しています。
2100年には、世界人口は100億を越えるとも言われています。経済発展=環境破壊は絶対に避けなければならない重大課題です。2010年からは、より安全な電力供給に貢献するために再生エネルギー事業部を設立し、 太陽光発電事業を開始致しました。
東日本大震災を機に、クリーンエネルギー推進の重要性を痛感し、 再生可能エネルギー普及のため、太陽光分譲仲介を全国で開始致しました。

太陽光発電事業で地球を守り、
20年後も子ども達が安心して暮らす幸せな未来を創りたい。

太陽光や風力、太陽光、水力などは、再生可能エネルギーといい、何度も資源が再生するエネルギーのことです。
原子力や火力に比べて圧倒的に安全性が高いエネルギーです。
私が再生可能エネルギーを推進する本当の理由、 それは、大切な地球を守り、20年後のしあわせな未来を作りたいからです。
原子力は放射能、火力は爆発の危険性があります。
どちらも事故が起これば周辺地域に及ぼす影響は計り知れず、最悪はそこに住めなくなります。

2016年4月に発生した熊本地震は震度7、震度6といった巨大地震が発生し、 1か月余りで千数百回を超える余震が続いています。
今回の地震の震源となったと考えられ、活断層上に建設されているといわれる鹿児島県の川内原発は、今も稼働を続けています。
万が一、福島の原子力発電所のように事故が起きれば、九州全体が放射線の海と化すでしょう。
想像するだけでも、恐ろしい事です。
風力、太陽光、水力などの再生可能エネルギーは、石油や石炭などのように枯渇することもなく、 継続的に使用可能なエネルギーです。
石油や石炭どの化石燃料とは違い、地球温暖化の原因となる 温室効果ガスがほとんど出ないため、最も好ましいエネルギー源です。
日本のようにエネルギー資源をほとんど100%輸入に頼らざるを得ない 資源小国にとって、再生可能エネルギーは21世紀の夢のエネルギーといえます。

2011年の東日本大震災を機に、日本国家としても国策として再生エネルギーの普及に取り組んでいます。
化石燃料や原子力から再生可能エネルギーへの転換で、 大切な地球を守り、20年後のしあわせな未来を一緒に作りましょう。
私たちを生み育ててくれた「自然」に感謝を込めて、 自然と人が共生できる明るい未来の為に、環境事業に積極的に取り組んでいます。皆様と「甦れ日本!甦れ地球!」の志を共有できたら、とても嬉しいです。

もう一つの社会貢献活動。
ヒロシマ復興の史実を伝え、平和を創る子ども達を育てる輪を広げたい。

2015年、戦後70年を機に、戦争でほとんどの男手を取られた中で広島の復興を支えた曾祖母、祖母、母、女性たちの実話を描いた漫画「キセキのヒロシマ」(1~5巻)を原作・自費出版致しました。
壊滅的な状況の中でも、前を向いて希望を持ち続けることで困難を乗り越え復興した歴史的事実と、憎しみではなく、恕す心で慈しみ、敬いあえる事を祈り、平和の大切さをテーマに制作致しました。

2016年3月には英語版「ヒロシマミラクル」、2017年には日本語版の合本版を出版致しました。
ノーベル平和賞受賞、オバマ元アメリカ大統領からは、英語版ヒロシマミラクルを読んで「感動した!」という内容のお礼状を賜りました。
教育期間に無料貸出を行い、山口県下関市全ての小・中学校72校で活用頂く等、今までとは違う前向きな平和教育の形として評価を受けています。
漫画「キセキのヒロシマ」を読まれたすべての人々が、「恕す心」と「慈しみ、敬いあえる心」で、平和を創りたいという想いを共有して、世界平和が1日も早く実現することを心より願っております。
是非、手に取ってご覧いただき、平和学習などにご活用いただけましたら光栄です。

>>>漫画「キセキのヒロシマ」の詳細はこちら >>>

世界の子ども達と「子ども世界平和サミット」を開催

ふるさと広島での世界平和会議を実施したいと、アメリカ、フランス、ロシア、イタリア、ドバイ、インド、サハラ砂漠など、たくさんの国を訪問致しました。
10歳の時、交通事故による脳内出血からの奇跡の生還をきっかけに始まった「世界平和実現」の想いから始まり、2009年から「ピースピースプロジェクト」として、2015年からは「一般社団法人ピースピースプロジェクト」として活動を続けて参りました。
しかし、私の私財を換金して推進するだけでは、世界平和実現は到底叶わないと大きな壁にぶつかりました。

漫画「キセキのヒロシマ」を通じた平和学習の推進は、ヒロシマに関心がある方や私と直接お目にかかった方など限られた方とのご縁の繋がりで広がっております。
しかし、10歳の時に臨死体験をしている私は、私の死により、この活動が継続されない危険を感じたのです。
未来の子供たちが絶えることなく、平和への想いを持ち続けてほしい。
そんな願いから、「SDGsネイティブ」と呼ばれている10代の子ども達と共に未来の平和を創っていこうと決意しました。

そこで、子ども達がそれぞれの立場から「自分にとっての平和とは何か」を考え、「世界平和を実現するアイデア」を発表する「子ども世界平和サミット」を始動することを決意しました。
「子ども世界平和サミット」が、国家的プロジェクトに成長することを願い、開催場所を、各国のリーダーが使用する「衆議院議員会館 国際会議場」としました。
この子ども世界平和サミットを、2025年の大阪・関西万博にて、世界100か国 1億人の子ども達と開催することを目指しています。

コロナ禍で、開催できるのか、開催方法をどうするのか。延期、中止、スポンサーゼロ、全額負担で開催できるのかといろいろ悩みましたが、2025年の100か国1億人の子ども達との開催のためには、工夫しながら継続的に催し、さまざまな体験を積む必要があると思いました。
今年も、開催方法を模索しながら、協賛企業、協力団体探しに毎日奔走しています。
小さな平和への想いを集めて、世界平和実現に向かって前進しています。応援いただけましたら嬉しいです。