死の恐怖の極限状態で気づいた「感謝」

みなさま、こんにちは。
ピンク社長こと多田多延子です。

前回、「母の魔法の言葉」の魔法にかかり(笑)
18歳の時に自己資金で起業したお話をさせて頂きました.。

でも、起業したいと思っていたのは
もっとずっと前からです。

まず、最初の起業を志したのは
「キセキのヒロシマ」にも登場している
わたくしの曾祖母の影響です。

70年の前に広島で被爆した曾祖母は、
会社や家、財産、家族を失い当時5歳の幼い母を
女手ひとつで育てなければなりませんでした。

そんな中でも、事業を再建し地域に
貢献しつづける曾祖母はわたくしの憧れでした。

漠然と、「ひいおばあちゃんみたいに
誰かを助けることが出来る起業家になりたい
と思ったのが幼稚園の時でした。

そして、普通の小学生として普通に過ごしていた時に(笑)
晴天の霹靂が起こります。

小学校5年生の時に、自転車同士の正面衝突にて
頭蓋骨陥没、脳内出血という大事故に遭遇します。

「だれが」と聞かれるほど、
まったく後遺症はありませんが
まぎれもなくわたくし多田多延子本人です。

数日後、病院の集中治療室で目を覚ますまでの
記憶はほとんどありません。

只、毎晩両隣の病室の人が唸り声や悲鳴を上げて
翌日亡くなられていたので
「もしかして、私は物凄く大変な状態なのでは」と
10歳ながらも、死の恐怖を感じました。

「私は、明日の朝、目覚めることは出来るのだろうか
隣の病室の方が変わるたびに、恐怖が確信に変わっていました。

極限状態の恐怖を体験した私は、ある答えを見つけました。

「私は生きているんじゃない、生かされているんだ

心の底から感謝が湧きおこってきました。

その瞬間から、毎朝の目覚めは私にとって
生かされている感動の時間となりました。

そして、私は生かされている感謝の証として
「生かされている命を使って社会に役立つ起業家なる」
その決意を10歳の時に病室で致しました。

恐怖の極限状態での決意は、凄いですね。
いまでも、はっきりと覚えています。
そして、その決意は一度も揺らぐ事はありませんでした。

その後、たくさんの奇跡的な出会いのお蔭で
18歳で起業します。そのご紹介は改めて。

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