市民の樽募金が救った【広島カープ誕生秘話】
みなさま、こんにちは。
ピンク社長こと多田多延子です。
昨日の引き分けは本当に残念でした
でも、最後まであきらめなかった
広島カープの選手はやっぱり輝いていました。
来年は、戦後70年。
広島の川には鯉が泳いている
滝を登る力強い鯉を広島復興のシンボルとして
誕生した広島カープの優勝を祈っています。
広島カープ初代監督西本監督は、
タイガースを2度優勝させ、
5つの球団で監督をつとめた名監督です。
もと、新聞記者という異色の経歴もお持ちです。
広島カープの監督の要請があった時に、
「金は、いらない。
野球人生をふるさと広島の復興に捧げたい」と
監督を引き受けられました。
昭和25年開幕三ヶ月前迄、運営資金がなく、
選手が一人も決まっていなかったそうです。
西本監督は入団テストをして、選手を育てました。
資金難の為に、ユニフォームはズタブクロの様な生地。
選手の給料も西本監督が企業を回って
工面されていたほどです。
1シーズン半ばに、資金難で解散の危機が訪れます。
昭和26年3月14日、資金難を理由に
旅館でカープの解散が決定しました。
それを聞きつけた2000人の市民が
「カープをなくさないで!」
と旅館を取り囲みました。
元新聞記者の西本監督は、
「みなさん、わたしも頑張ります。
市民のみなさんも支えてください」
当時400万(現在の金額で2億円)を集める
樽募金を始めました。
本当に貧しかった時代に市民がコーヒー1杯、
ビール1杯を飲んだつもりで募金活動をしたそうです。
ナインは公民館を回り、歌を歌ったりして募金活動をしました。
西本監督は、ベンチに帳簿を持ち込んで
日々資金の工面をされたそうです。
そして、400万(現在の金額で2億円)を集め
広島カープの継続か決定しました
西本監督は、
「広島カープは、蘇りました。
郷土愛溢れるみなさんの温情に感謝します。」
と挨拶されたそうです。
がれきの中から立ちあがった広島市民の
愛で蘇った広島カープの歴史
たくさんの方に知って頂けると嬉しいです
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