フランスの発展に偉大な功績を遺したマダムポンパドールの志に学ぶ
ピンク社長こと多田多延子です。
小学校の時、図書館で偉人たちの伝記に出会い
夢中になって沢山の偉人伝を読み漁りました(笑)
ポンパドゥール夫人は、わたくしの最も敬愛するお一人です。
食卓文化研究家 加藤淳子さん主宰の
プリンセスセミナーに参り、
ルイ15世の寵姫ポンパドゥール夫人を学びました。
以前、フランスの男性の何人かの友人に
「最も尊敬するフランスの偉人は誰」
と質問をした時に、
すぐに「ポンパドゥール夫人」と言われました。
理由は、
「女性の地位向上に寄与したから」との答えで、
とても驚きました。
フランスの三大美女として
名高いマダムポンパドールですが、
フランスでの評価は美貌ではなく、
彼女の社会的貢献を評価されており、
ますますポンパドゥール夫人の事を学びたいと思い
いろんな書籍を拝読しました。
ポンパドゥール夫人は、様々な分野で
フランス文化の発展に
偉大な功績を残しました。
知性、美貌ともにたゆまぬ努力を続け、
美術と学芸をこよなく愛し
なによりルイ15世、フランスの発展を
命がけで支えた志の高さに感銘いたしました。
いつも、歴史の偉人達から志を高くもつ
大切さを学ばせて頂いています。
ポンパドゥール夫人の略歴です
1721年パリの銀行家の娘として生まれる。
平民という身分ながらブルジョワ階級の娘として
貴族の子女以上の教育を受けて育つ。
成績は非常に優秀であった。
1741年に徴税請負人のシャルル=ギヨーム
ル・ノルマン・デティオールと結婚、
タンサン夫人やジョフラン夫人の超一流サロンに
出入りするようになり、ヴォルテールやフォントネルら
一流の文化人と知り合い、
1744年にはその美貌がルイ15世の目に留まった。
彼女はポンパドゥール侯爵夫人の称号を与えられて
夫と別居し、1745年9月14日正式に公妾として認められた。
フランス国王の公式の愛妾となったポンパドゥール夫人は、
湯水のように金を使って、あちこちに邸宅を建てさせ
(現大統領官邸エリゼ宮は彼女の邸宅のひとつ)、
やがて政治に関心の薄いルイ15世に代わって
権勢を振るうようになる。
ポンパドゥール夫人に推されて1758年に外務大臣となった
リベラル派のシュワズールは戦争大臣なども兼務し、
およそ10年にわたって事実上の宰相となった。
フランスの重農学派ケネーも彼女の主治医であった。
ベッドの上でフランスの政治を牛耳った「影の実力者」といえる。
ポンパドゥール夫人の有名な言葉は「私の時代が来た」。
1756年には、オーストリアのマリア・テレジア、ロシアの
エリザヴェータと通じ反プロイセン包囲網を結成した。
これは「3枚のペチコート作戦」と呼ばれる。
特に宿敵オーストリアとの和解は外交革命と言われるほど
画期的であり、和解のために後年マリー・アントワネットが
フランス王室に嫁ぐこととなる。
ポンパドゥール夫人は美貌ばかりでなく学芸的な才能に恵まれ、
サロンを開いてヴォルテールやディドロなどの啓蒙思想家と
親交を結んだ。
また芸術の熱心な愛好家、パトロンでもあり、様々な芸術家とも
交流した。ポンパドゥール夫人の時代はフランスを中心に
優雅なロココ様式の発達した時代になった。
30歳を越えたころからルイ15世と寝室を共にすることはなくなったが、
代わりに自分の息のかかった女性を紹介した。
ルイ15世はポンパドゥール夫人が42歳で死ぬまで寵愛し続けたという。
鹿の園を建ててルイ15世好みの女を住まわせたというが、
いわゆるハーレムのようなものではなかったという。
現代では、ポンパドールは男性の前髪を高くしたスタイル
(リーゼントと呼ぶのは間違いであり、これは側頭部から
後頭部の髪形を指す)及び女性の髪形のひとつで
前髪を大きく膨らませて高い位置でまとめ、ピンやバレッタなどで
留めたヘアスタイルである。
襟足もあげて、後頭部でまとめるのが正式なスタイルといわれる。
当時の貴族の女性はこぞってポンパドゥール夫人のファッションを真似した。
◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆
戦後70年、新しい平和継承の形data-mce-style=”color: #0000ff;” style=”font-size: 16px; line-height: 24px; color: rgb(0, 0, 255); background-color: rgb(255, 255, 255);”>
出版へ私の背中を押してくれた女性たちの恕(ゆる)す心
「キセキのヒロシマ」電子版配信スタートのご報告
女性たちから寄贈活動の輪が広がっています
◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆
\