世界的女性起業家ココ・シャネルの成功の真髄
みなさま、こんにちは。ピンク社長こと多田多延子です。
広島商工会議所女性会連合会主催の講演会で
シャネル株式会社のリシャール・コラス社長のお話をお聴きしました。
ガブリエル・ココ・シャネルは世界的に有名なデザイナーであると同時に、
私が最も尊敬する女性起業家のお一人です。
お写真はガブリエル・ココ・シャネルです。
いつもココ・シャネルの名言からシャネルの哲学を学んでいたのですが、
シャネル株式会社のリシャール・コラス社長から経営者としてのシャネルの偉大さを
学ばせて頂きました。
シャネルの名言を毎日思い出せるようにオフィスにもシャネルアートを飾っています。
翼を持たずに生まれてきたのなら、
翼を生やすために、
どんな障害も乗り越えなさい。
- ココ・シャネル -
1883年、フランス南西部のソミュールに生まれる。
11歳のときに母が病死、行商人の父にも捨てられ、孤児院、修道院で育つ。
18歳で孤児院を出た後、お針子仕事の傍ら、歌手を志してキャバレーで歌うようになる。
「ココ」は愛称で、当時歌っていた曲名に因んでつけられたもの。
その後、歌手の道はあきらめ、当時交際していた将校の牧場へ移る。
そこで退屈しのぎで制作した帽子のデザインが認められ、帽子のアトリエを開業。
1910年には「シャネル・モード」という帽子専門店を開店。
1915年には「メゾン・ド・クチュール」をオープンし、コレクションでも大成功を収め、
シャネルは成長を続ける。
しかし、第二次世界大戦中、ココ・シャネルはドイツの親衛隊少将と愛人関係にあったため、フランス解放後に非難を浴びて、スイスへ亡命。
1954年、スイスからパリに戻り、ファッション界へのカムバックを果たす。
ヨーロッパではバッシングを受けたが、女性の社会進出がめざましかった米国では
熱狂的に受け入れられ、翌年シャネル・スーツを発表、モード・オスカー賞を受賞する。
私のファーストシャネルは、18歳の時。
シャネルの伝記を読み、シャネルの起業家精神に感銘していたわたくしは、
初めて自分で稼いだお金でシャネルバックを購入しました。
それから約10年間、ずっとシャネルバックは私の同志として共に人生を歩んできました。
それは、きっとココ・シャネルの創業者精神に勇気づけられ、励まされていたからです。
孤児となり自らの力で運命を切り開いたシャネルは、駆け出しの画家ピカソなど
多くの若手芸術家を支援していました。
その想いを引き継ぎ、銀座のシャネルビルでも長年に渡り若手アーチスト育成事業を
推進され多くの芸術家を世界に輩出されています。
1920年代当時、ジャージ生地は男性の下着としてのみ使われていました。
しかしシャネルは、既成概念に囚われることなく、「女性が自由を手に入れる」という
自らの理念を遂行する為に世界で初めて女性用衣服にジャージ素材を採用します。
当時、自宅でしかお化粧をしなかった女性が外出先でもお化粧が出来るようにと、
リップステックもシャネルが世界で初めて考案したものです。
みんな、
私の着ているものを見て笑ったわ。
でもそれが私の成功の鍵。
みんなと同じ格好をしなかったからよ。
- ココ・シャネル -
私は流行をつくっているのではない。
スタイルをつくっているの。
- ココ・シャネル -
シャネルの成功の鍵は、世間の目より、自分の使命に正直に生きた強さにあると思います。
失敗を恐れない革新性こそ、シャネルの魅力であり真髄なのです。
以下リシャール・コラス氏の略歴です。
フランス南部の地中海に面するオード県出身。
1972年、自身が18歳のときにエールフランス航空のパイロットである父親の勧めで初来日。
1975年にパリ大学東洋語学部を卒業。同年より2年間、在日フランス大使館に勤務。
1979年、ジバンシィ入社。1981年のジバンシイ日本法人会社の設立に参加し、
4年間代表取締役として勤めた。
1985年、シャネル株式会社に香水化粧品本部の本部長として入社。
1995年に、シャネル株式会社代表取締役社長に就任。
作家としてのデビュー作は広島県尾道市が舞台となった『遙かなる航跡』。
日本に暮らし始めて約40年、鎌倉に居を構えてから約10年と人生の多くの時間を
日本で過ごす。所謂、親日家。妻は日本人。