世界的建築家★安藤忠雄さんのゲリラ的生き方に学ぶ
みなさま、こんにちは。
ピンク社長こと多田多延子です。
広島商工会議所青年部のオープン例会で
世界的建築家 安藤忠雄さんの講演を拝聴しました。
安藤さん手掛けられた、直島に伺い
【自由、挑戦、勇気】をビジョンに
挑戦される姿に魅かれていましたので、
とても楽しみにしていました。
安藤忠雄さんの講演に会場には、
熱気溢れる1300名を超す参加者でございました。
広島の未来について
「歴史を散策して、未来を感じる街づくり」と
大きな大きなヒントを提言くださいました。
「市民のみなさんが、自らの足でこの街を歩き
本気でこの広島を愛し、良い街にしたいと
思わないとなにも変わらない。
戦争の歴史をもっと大切につたえなさい」と
世界を歩き、日本の美しさを知り尽くした
安藤さんならではのアドバイスでした。
広島には、知的、歴史的財産がたくさんあります。
広島だからこそ出来る、
歴史から学び未来を感じさせる街づくりを
進めて参りたいですね。
安藤忠雄さん 以下転記
一級建築士(登録番号第79912号)。
東京大学名誉教授。21世紀臨調特別顧問、
東日本大震災復興構想会議議長代理、
大阪府・大阪市特別顧問。
卒業後に、前衛的な美術を志向する
具体美術協会に興味を持ち、関わったこともあるが、
大学での専門的な建築教育は受けておらず、
関西の建築家・都市計画家の水谷頴介などの
建築設計事務所でのアルバイト経験と独学で
建築士試験に合格したという。
木工家具の製作で得た資金を手に、
24歳の時から4年間アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、
アジアへ放浪の旅に出る。
ヨーロッパからの帰路、マルセイユで数週間待たされた後、
帰国の船に乗り、象牙海岸、ケープタウン、
マダガスカルに立ち寄り、インド・ムンバイ(当時のボンベイ)で
下船する。安藤は”何かに導かれるように”汽車に乗り
ベナレスに向かった。
ガンジス川で牛が泳ぎ、死者が荼毘に付され
傍らで多くの人々が沐浴するさまや、
強烈な太陽の下、異様な臭気に包まれた果てしなく続く大地、
生と死が渾然一体となり人間の生がむき出しにされた
混沌世界に強烈な印象を受け、逃げ出したい気持ちを
必死にこらえながらガンジス川の岸辺に座り込み、
「生きることはどういうことか」を自問し続けた。
「人生というものは所詮どちらに転んでも
大した違いはない。ならば闘って、自分の目指すこと、
信じることを貫き通せばいいのだ。
闘いであるからには、いつか必ず敗れるときが来る。
その時は、自然に淘汰されるに任せよう」と考え、
ゲリラとしての生き方を決心する。
1965年、24歳のときである。
この放浪中に安藤が撮影した写真は、
ルイス・I・カーンの作品集などで使われている。
また、過去にはプロボクサーでもあった。
ファイティング原田の練習風景を見て、
その才能に圧倒され、ボクサーとしてやっていくのを諦めた。
1977年のローズガーデン(神戸市生田区)等
初期の作品のいくつかは、弟の孝雄の所属していた
セツ・モードセミナー出身の浜野安宏が代表を務める
浜野商品研究所(1992年、浜野総合研究所と改名)と共に実現した。
1970年代には個人住宅などの小規模建築、
1980年代には商業施設、寺院・教会などの
中小規模の建築の設計が多かった。
1990年代以降は、公共建築、美術館建築、
また全国や海外の仕事も増えている。
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